思わず現金を隠してしまった洗濯屋の会計係

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思わず現金を隠してしまった洗濯屋の会計係
 現金取引の多い商売は現場を押さえることが第一だと、税務調査をする若い調査官は先輩からし つこく教え込まれる。洗濯屋も現金収入の多い商売である。大した金額でもないのに逃げ隠れしよ うとして、かえって深部までえぐられた実例がある。

 東横線の学芸大前駅近くに、須藤正夫(四十八歳)が洗濯屋を開業して十数年たった。よいお得 意さんもふえた。よりでっかくかまえて、資本金二百万円の株式会社にしたのは十年前である。 いわずと知れた同族会社だ。代表取締役は正夫、専務取締役は妻の直江(四十一歳)、ほかに田舎 にいる叔父が取締役、直江の弟が監査役というお膳立てである。

 「お父さん。とにかく貯めなきゃ駄目だよ。経理のことはわたしにまかしときなさい」

 直江は経理の実権を握ると、毎日せっせとへソクリだした。十五歳になる長男は、私立の中学 校の三年生だが、一流の進学高校に入れるために、家庭教師を二人もつけていた。十二歳の長女 にも一人の家庭教師をつけた。

 五年前に直江の姪の富子〈十七歳)を預かって、庖で使いだした。計算ができるので、帳簿のっ け方を教えると同時に、へソクリの方法も教えた。

 近くの同業者の奥さんは、ご用聞きに廻る顧客以外の、自分で洗濯物を持ってきて、仕上がっ た頃、現金引き換えでとりにくるお客の売上げはまったく帳簿につけていないという。なるほど、 てさげ そうすれば、大丈夫なのかと直江は意を強くした。毎日のへソクリ分は、手提金庫のそばの厚手 の布袋に入れさせ、

 「税務署から調べにきたら、お前はさっとこれを持って裏口からそっと逃げるんだよ」

 と直江は富子に繰り返し教えた。

 ある秩の日の昼下がり、

 「こんにちは、税務署のものですが…」

 と若い男が入ってきた。そのとき庖の床をモップで拭いていた富子は、パターンとモップを放 りだすと、手提金庫に走って行き、いきなり金の入った袋を持って裏口から逃げ出した。本格的 な実地調査にきたわけではなく、近所の旅館の洗濯代とその内容について、ちょっとききにきた だけの調査官はかえって驚いた。そして、彼は、

 『現金の入っている袋だった』

 と直感したのである。素知らぬ顔をして、上司に命ぜられた旅館の裏付け調査を簡単に済ませ て、帰ろうとしたら、富子が裏口から顔をのぞかせた。

 「ちょっと、あんた…」

 と呼び止めると、富子はしおらしく中に入ってきたが、手にはなにも持っていなかった。問い 詰めたら、すぐ隣の銀行に置いてきたという。これをとっかかりにして正夫名義や直江名義の隠 し預金、一千万円近くが浮かびあがるのに、そう時聞がかからなかった。