電話帳から帳簿のウソが見つかった給食会社の“不運”

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電話帳から帳簿のウソが見つかった給食会社の“不運”
 戦後、急激に新しい商売が渇えてきた。給食会社などは昔は考えられなかった。弁当屋といえ ば、駅弁だけだった。給食会社は一軒の得意先をつかむと、ことわられないかぎり、なかば永続的 に利益をあげさせてもらえる。

 東京下町の月島三丁目に秋山文夫(六十歳)が、仕出しの弁当屋を開業したのは、昭和三十五年 の秋だった。初めは近くの小さな会社などで、ささやかな宴会をやるときに、二十個とか三十個 といった折詰弁当をつくって届ける小さな商売だった。これが意外に評判をよんだ。同業者もな かったせいもあろうが、夫婦と下働き一人では間に合わなくなってきた。

 昭和四十五年、息子も成人したので親子を中心にして株式会社組織にし、秋山給食株式会社と して飛躍した。従業員も五人になり、配達用の自動車も二台買い入れ、月島から晴海、遠くは新 宮町あたりまで手をのばした。一時期、中小の会社が従業員の定着をはかるために、厚生施設と して昼食を給食するところが増えたことがある。その名残りが続いているわけである。会計のこ とは皆目わからない秋山は、会社にしてからは、帳面のことを、経理の勉強をやった息子の富雄 (二十五歳〉にまかせきりにしていた。

 秋山夫婦と富雄が取締役、もちろん代表権は秋山が持っていた。頭の固い秩山は、息子がいく らいっても、役員報酬をたくさんとろうとしない。一ヵ月平均三百五十万円の売上げ、年四千万 円はくだらない会社だ。荒利益は平均して三五パーセントはある。親子で年間合計四百万円ぐら いの報酬では、税金にもっていかれてしまうほうが多い。

 ところが、この秋山は息子に頭がおかしいのじゃないかと思われるほど、税金をたくさん納める のが自慢なのである。息子は学校の先輩のアドバイスを入れて、得意先を二軒ばかり伏せること にした。この二社はどちらも小さい会社で、毎日二十食分ぐらい出るが、容器を夕方回収にゆく と、きちんと現金で払ってくれる上得意である。これを売上げにあげないことにした。一日約一 たい含ん 万五千円、この仕出し屋にすれば、一年間では大金である。こうして着々と金は増えていった。

 会社組織にしてから二度目の税務調査が久し振りにあった。調査官は二人来て一日で終わった。 一人が元帳や基本的な帳簿を調べ、もう一人の若い方が仕入伝票やその辺にあるメモなどをなが めたりしていた。三日自に年輩のほうの調査官が一人でやってきて、富雄が落としていたこ軒分 の一年間の売上げを書き出した税務署の周築を出した。富雄はギョッとして言葉が出なかった。

 「この間、相俸にあんたのところの電話帳を写させたんですよ。そのうちから何軒か電話をかけ て取引があるかきいてみたら、まずこの会社がおたくの売上帳にないことがわかり、それではと いうので全部あたったら、もう一軒載っていないことがわかったんですよ」