架空の工員をデッチあげた製本屋

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架空の工員をデッチあげた製本屋
 オートメーション化され、工員が減ったとはいえ、町の小さな製本工場では、合理化できる機械 を購入するのに資金面でひと苦労する。そのためまだまだ入手がいるところが多い。これを逆手に とって、表にだせない“経費” にあてた知恵者eかいた。

 遠井乙吉会(三十八歳〉は、五十嵐製本工場の支配人として、ほとんど一人で切り回していた。社 長がもう七十歳を越し、よぼよぼの状態だったからである。有限会社組織で出資社員は社長と奥 さんの二人きり。奥さんはまだ四十歳をでたばかりであった。

 こうなったのにはわけがある。社長が四十五歳の働き盛りの頃、十七歳の娘が工員として入っ てきた。その娘と社長ができてしまい、前の奥さんを追いだして正式に連れ添ったのである。し かし、そこは若い女である。十年も前から乙吉といい仲になっていた。社長はよぼよぼになって かね も、金への執着がある。奥さんや乙士口の自由にはさせなかった。

 大口の得意先である教科書会社から、下請けの印刷会社や製本工場に、機密費捻出の相談を持 ちかけられた。教科書会社は文部省のきめた原価計算要綱によるので、機密費を捻出する余裕が ない。五十嵐製本工場への割り当ては百二十万円であった。表向きに出す余裕はあるが、表に出すと税務調査の結果、親会社に波及する恐れがある。乙士口は事情を社長に話し、一一計を案じて工 員の水増しをすることの了解をとった。若いのを一人増やせば百二十万円ぐらいはすぐ浮いてく るが、奥さんとの内緒ごとのために使う資金もほしい。この資金もこれに使乗させることにし て、二人地やすことにした。

 増やした二人は、賃金台帳にきちんと載せ、所得税の源泉徴収はもちろんのこと、社会保険に まで加入させていた。まったく実在しない二人の工員である。

 三年も税務調査がなく、親会社との関係もうまくいって、平穏な日が続いていた。税務署から 調査をしたいと連絡があり、二日置いて調査官がやってきた。事務所になっている狭い部屋で帳 簿を調べ、ちょうど賃金台帳を調査官がみているところで近藤という工員が電話をちょっと貸 してくれと入ってきた。用事がすんで彼が帰りかけようとしたとき、調査官に呼び止められた。

 「あなたはなんという名前ですか」

 「近藤です」

 乙吉は近藤に事情を説明しておかなかったことを悔んだが、もう遅い。

 「ところでこの人は今日きていますか」

 賃金台帳を指差しながらたずねたのは、甲野一郎という氏名だった。近藤にしてみれば、聞い たこともない氏名だった。その場で調査官は近藤に十八人いる工員一人一人について聞いた。